扶桑会について
指導者: 石塚嘉 【達人・名人・秘伝の師範たち】
稽古日時:日曜14時半~16時半 / 木曜19時~21時
稽古場所:神道扶桑教 世田谷太祠 東京都世田谷区松原1丁目7−20 【道場紹介】
入会希望者が参加可能な公開稽古は 3月21日(火・祝)14時から17時まで開催します。
場所は 高津スポーツセンター 第二武道場です。
扶桑会への入会を希望される方は 左のメールフォームよりお問い合わせください。
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稽古日時:日曜14時半~16時半 / 木曜19時~21時
稽古場所:神道扶桑教 世田谷太祠 東京都世田谷区松原1丁目7−20 【道場紹介】
入会希望者が参加可能な公開稽古は 3月21日(火・祝)14時から17時まで開催します。
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其の四百二十三 乗せ続ける 大東流合気柔術 扶桑会 
どのような攻撃が来た場合にあっても、大東流においては初動で我が方の有利な状態を作ってしまうことを目指す。
無論それはどのような武術においても同様であるのだが、この合気柔術という思考法が独創的であるのは、「相手に攻撃をさせ続ける」ことで、そうした優位な状況を作り上げてしまうところだ。

今回の動きでは、相手が胸をつかみに来る。
こちらとしてはその攻撃の勢いを妨げることなく、むしろより攻撃の意思を継続させるように身体を捌いていく。
これは前々回の「其の四百二十一 乗せて制する」における操作と共通するところであるが、相手の攻撃とぶつからず、相手に攻撃が届いたと錯覚させるような初動を行う。

そして次に掴みに来た小手を捕るのであるが、これも相手を崩そうと引っ張るのではなく、その精度が高まれば高まるほど柔らかく相手にからみつくような感覚で「一体となる」ことを目指す。
自分の身体操作にとどまらず、相手の意思、身体感覚に共感し、それと同一化していくとでも言おうか。

少々オカルト的な物言いに反発を覚えられる向きもあるかとは思うが、修練を重ねていく中で、初動において相手の感覚を重要視することが必要になってくる。

とっさの場合に自分の身体感覚を延長し、周囲の状況までを感じ取っていく。
それぞれの習熟の度合いに応じて、こうした「心構え」の部分にも意を用いていただきたい。
其の四百二十二 お辞儀する 大東流合気柔術 扶桑会 
前回、「其の四百二十一 乗せて制する」では胸倉をつかまれそうになった時、その直前で回避して制する動きを取り上げた。
今回は、掴まれてしまった場合にどう対処するかというところで解説してみたい。

ここでも重要になるのが「相手を乗せてしまう」という操作であるが、強くつかまれている接点に力をかけると、相手の抵抗を生んでしまう。
やはり、ぶつかることなく相手の攻撃線を外側にはずしながら、掴んできた腕に沿うようにして身体を捌く。
この時の動きの精度が高くなれば、相手は自分の腰に「乗ってしまう」。

攻撃に対して、全身を使って寄り添うように動くことが相手を無力化するのに最も効果を発揮するというところが、古武術である大東流の真髄と言える。
さらに言えば、今となっては失われつつある日本古来の考え方の高度さを表していると言えないだろうか。

身体操作的には、この後も力任せに相手を痛めつけるということではなく、全く力を入れないような意識で相手の腕に自分の手刀を「乗せる」。その状態で手首と腕を固定しながら、腰から折り曲げるようにしてお辞儀をすれば、相手はたまらず崩れ落ちる。

試みに力を込めて相手を押し込んでみても、決してそれでは倒せない。
如何に相手への対抗心を消すかがこの動きの本質である、ということを念頭において稽古していただきたい。
其の四百二十一 乗せて制する 大東流合気柔術 扶桑会 
相手の攻撃が早く、強くなればなるほど、それに対応する技は緩やかで柔らかくなければいけない。
今回の操作は、そうした大東流合気柔術の特徴をよく表すものだ。

両手で胸倉につかみかかってくる相手に対して、こちらは攻撃を受ける直前まであたかも「掴まれるのを待っている」ように自然体のまま立つ。
そして相手が前襟をつかんだと錯覚するほどの瞬間に、できるだけ緩やかに体全体を捌いて、攻撃線の外側に身体を置く。
同時に、流れるような動きで相手の掴み手を下から掬い上げるように触る。
この時相手の激しい前進の勢いを、こちらの体幹部分と接続させるような意識が必要だ。

動画内ではこれを「自分の重心の上に乗せる」と表現しているが、ここが最初の一挙動にして技の成否を決定づける操作となる。

流れるような動きが求められると書いたが、具体的にはこの操作を肩から先の動きで行っては相手とのぶつかりを生じさせてしまう。
腕を動かすのではなく、「腰を使って相手の腕を挟む」感覚と言えばよいだろうか。

腰から発する力で身体の末端を動かしていく。
これこそがいわゆる「柔らかい力の発揮」だと扶桑会では考えている。
其の四百十二 捌いて制する 大東流合気柔術 東京稽古会 
攻撃を仕掛けてきた相手を、その力に逆らうことなく制してしまう。
今回は、大東流合気柔術「小手詰」の操作法を通じて、そうした考え方を解説する。

相手の攻撃は胸取りである。足を踏み出し「なんば」の動きで胸をつかみに来る。
そこには必ず攻撃線が生じる。
その時、相手との接点に手刀で軽く触れながら攻撃線を挟むように内から外に身体を捌く。

この「軽く触れながら」というところが非常に機微なのであるが、強い力で操作してしまうと相手もまたそれに呼応するように力をぶつけてきてしまう。
あくまでその接点に手首を留めておくだけ位の心持で「小指だけをひっかけるようjに」自分の身体だけを動かしていく。

この操作によって、相手の心理的には反撃を受けたような自覚がないままに、大きな力を手首関節から肩にかけて受けることになる。
体感してみれば良く分かることであるが、相手の腕による攻撃に対して、全身の力を効率よく伝えるわけで、抗いようのない形で体の自由が奪われてしまう。

さらにこの操作には、自分の重心、すなわち地球の引力と合致した軸に相手を引き寄せ、そこに「乗せて」しまうという要素もある。
そのあたりの考え方については、また項を改めて述べることにしたい。
其の四百九 親指で引く 大東流合気柔術 東京稽古会 
今回は大東流合気柔術 初伝一カ条の肘返(ひじがえし)という形を使って手刀の使い方を解説する。
手刀を使って「引きつける」動作を行う場合、親指側、つまり手刀の峰を使うことで大きな力を発揮するという実例を見ていこう。

受け手側の攻撃は、胸取り。当然ながらこの攻撃は単発ではない。
次の一手でさらなるダメージを与えようとする意図を持っている。
この時に登場するのが親指=手刀の峰だ。
相手の腕をなでるようにして自分の胸まで親指を引き付けてくる。すると相手の胸取りの手首はぴたりと自分の身体に密着する。

これは、腕の筋肉の力で引きつけるのとはまた少し異なる強さを発揮して、相手の手首を固定してしまう。
そのうえで腰を少し前方に進めると、胸倉を掴んできだ相手はもう次の手を出すどころではなくなるのだ。

同じように相手の肘の裏に親指を当てて固定する場合にも、抗いがたい大きな力を出すことが可能になる。
手首と肘の直線を接点の上に乗せ、相手の体重が手首関節に集中することで、たまらず腰を浮かせてしまう。

正しい姿勢で脇を締め、肩甲骨を含む背中全体の力が親指に集約されることで、この「引きつける」力が出る。
この肩に限らず、様々な場面で有効な「親指で引きつける」感覚を、日常の稽古の中で修得してほしい。
其の三百八十六 胸取裏落 大東流合気柔術 東京稽古会 
自然体でいることでこそ、本来自分が持っている力を発揮できるということを、大東流合気柔術の技法を通じて体感する。
東京稽古会の修練は、そうした実感をもとに本来日本人が有していた身体感覚を取り戻すことを一つの目的にしている。

今回取り上げたこの古武術特有の動きも、その実感を得るのにとても適した操作だ。
相手が掴みかかってくる動きに対して、手刀を中心に差し出しつつ、すれちがうように側方へ捌く。
すると当然手刀が相手に接触するが、そこには意識を向けずただ自然体のまま身体を動かしていくことに集中する。

この時に相手との接点である手刀に力が入ってしまうと、相手の身体との「つながり」が切れてしまう。
現代人には感覚的に腕の力で物事を進めようとする習性があるので、どうしても最初の内はそこで滞ってしまいがちだ。

そこを乗り越え、手刀を身体全体のものとして使えたとき、つまり全身が一体となった時、相手の身体は苦も無く動く。
全身を一体化する、すなわち自然体で動くということだ。

自然体については語るべきこと、伝えたいことがまだ多く残るが、それもまたおいおい稿を改めて述べていきたい。
其の三百七十五 胸取帯落 大東流合気柔術 東京稽古会 
相手から胸倉をつかまれたら、通常であれば危険を感じることだろう。
少なくとも次に襲ってくるだろう殴打や引き倒しなどの動きに備えなければならないと考えて身を固くしてしまうはずだ。

今回取り上げる大東流合気柔術の操作法は、相手が胸をつかんでくれたことを「あ、助かった」と思ってしまうような、そんな動きである。
掴むという動きを相手が選択する場合は、次の攻撃を確実に到達させるためである蓋然性が高い。
冒頭にも言ったように、突きや蹴り、などを想定しなければならない。

その場にいては、まともにその攻撃を食らってしまうので、相手のつかんできた腕を「盾」にするように体を動かす。
つまり、相手の腕の外側に立つ。

と同時に、自分の腕を柔らかく伸ばし相手の体に軽く触れる。触れる場所はつかんできた腕の反対側の肩のあたりだが、これはその状況に応じて微調整が必要となる。
いずれにしても、ここで重要なのは「同時に、柔らかく」という点である。
この要件を満たさないと、相手は無力化されない。

柔らかく軽く、自分の体を伸ばせば、不思議なほどに相手は次の攻撃を出せなくなる。
逆に力みが入ってしまうと、相手は嵩にかかって攻めこんでくる。
このあたりの操作の機微も、いずれ合気の概念につながっていくように感じている。
其の三百七十四 半座脇挫 大東流合気柔術 東京稽古会 
相手が攻撃しようとしてくる場所から「いなくなる」という動きについて考えてみたい。

大東流合気柔術では初動で相手の攻撃線を外し、自らを有利な位置に置くことを基本的な考え方としている。
今回取り上げた半座半立(自分は座位、相手は立ち)の形「脇挫」においても同様である。
ただその運用法として、ぎりぎりまで相手に攻撃対象としての自分の姿を認識させつつ、まさに相手が自分をつかもうとするその刹那に、あたかも本体が消失するように動くことで、技の効果が発揮される。

自分の胸をつかもうと伸びてくる相手の腕を上下の手刀で挟む、その腕に沿うように体を密着させるなど、初動に続く動きの中に様々な要素が含まれるが、それらも全部この「相手の前から消える=いなくなる」という操作によって可能となるのだ。

またこの「攻撃線上からいなくなる」という考え方の要素は、一本捕や逆腕捕などあらゆる形の崩しの際に利用される。
それは「相手が崩れることのできる空間をあける」というふうに解釈を変化させていくことによって運用されるのだが、それはまた項を改めて解説していくつもりだ。

大東流の思考法としての「いなくなる」を実現するには、相手の心理状態を読み、操る過程が必ず含まれる。
これを考究していく中に、いわゆる「合気」につながる動きが現れるのではないかと感じている。
其の三百七十三 胸取一本捕 大東流合気柔術 東京稽古会 
胸をつかまれようとするところを大東流合気柔術の基本的な操作法である「一本捕」で崩していく要諦を解説してみる。

一本捕は相手の腕を伸ばし、一本の棒のようにすることで肩~腰をコントロールする。
その際、腕の中間地点にある肘関節の構造を利用して、この「一本にする」動きを実現していくい。
初心者の場合は腕の力を使って無理やりに相手の体を処理しようとしがちだ。
陥りやすいところではあるが、いつも言うように相手との位置関係を適切にとった中で技を行わなければうまくいかない。

体の末端である腕や手を直接使うのではなく、それらを体幹の付属物のように認識したうえで体全体の動きの中に追随させることが肝要だ。

なおこの動きは、胸をつかまれてしまってからでは無効になる。
したがって相手がつかんでくる動きを察知するか、あるいは相手に胸をつかませるように誘いを入れるなどの工夫が必要となる。

日常の稽古の中でも、そうした意識をもってお互いの動きの精度を上げていってほしい。
其の三百七十二 外小手 大東流合気柔術 東京稽古会 
我々が取り組んでいる大東流合気柔術では、攻撃の方法を決めてそれに対応する「形の稽古」を行うことが中心になる。

試合による勝負の決着をそのアウトプットとしている実戦武術の諸派の目から見ると、そこが悠長にも見え、また「実際には役に立たないもの」であるというような批判を目にすることがよくある。
「実際に役に立つ」ということが個別に何を指すのかは議論が分かれるところであろうから、そこを争うことにあまり意味を見いだせないが、「形の稽古」だから役に立たないということにはならない。
形の稽古を行いながらも、強度を上げ、精度を高めていくことは当然できるし、受け手も捕り手も当然そこを目指す意思が欠かせない。

今回取り上げた「外小手」については、相手にしっかりと胸元をつかまれてしまった時と、相手につかませるように仕向けたときの技の内容は大きく異なる。
どちらの場合も接点を通じて相手とつながり、こちらの大きな力を伝えていくことに変わりはないのだが、その初動においてどのように相手と駆け引きをするかということに妙味が生まれる。

言い換えれば、相手の攻撃が始まる前にすでに技に入れているかということにつながるのだ。
攻撃を受ける、と考えるか。攻撃させる、と考えるか。

漫然と形稽古を行うにあらず、相手の攻撃を千載一遇、必勝の契機となしうるかどうか。
自戒を込めて、毎日をそうした思いで修練していきたい。