扶桑会について
指導者: 石塚嘉 【達人・名人・秘伝の師範たち】
稽古日時:日曜14時半~16時半 / 木曜19時~21時
稽古場所:神道扶桑教 世田谷太祠 東京都世田谷区松原1丁目7−20 【道場紹介】
入会希望者が参加可能な公開稽古は 10月22日(日)14時30分から16時30分まで開催します。
場所は 明大前 扶桑会館(神道扶桑教太祠 本殿) です。
扶桑会への入会を希望される方は 左のメールフォームよりお問い合わせください。
【関連商品】
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【Twitter】https://twitter.com/aiki_fusoukai
【Instagram】https://www.instagram.com/aiki_kobujutsu/
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其の四百五十二 完全脱力 大東流合氣柔術扶桑会 
何故こうなるのだろうと、不思議に思うこと。そしてその正体を見極める探求をし続けること。
私たちがなにか未知の技術を理解し、上達させていくためには、まずはそのような探求心が必要だろう。

今回の動きも、接点を脱力すると言うベースのところは同じである。
だが、表面的に大きく投げ飛ばすような派手な動きがある分、それに目くらましを受けてしまう人も多いかもしれない。
発生する動きの大きさは、こちらからの入力の大きさとは比例しない。
これは、相手に対して強い力を与えることで投げ飛ばしているのではないという意味だ。

その代わりに、相手が掴みかかってくる力をただ受け止め、それに逆らわないように自分の身体を動かしている。
「腕をフニャフニャにせよ」というのは、そのことだ。
言葉を変えていうならば、相手が掴んできた(攻撃してきた)その「害意」を妨げることなく、むしろ自ら喜んで攻撃させ続けてやる、というような意識を持つことが、この操作の一番肝心なところなのだ。

最初は相手が呼吸を合わせて「飛んで」いるのだろうと決めてかかる人もいるかもしれない。
それはそれで構わない。ただ、その人はこの技術の探求をすることはないだろう。
世の中が仮にそういう人ばかりになってしまったとき、古武術のこの技法は「失伝」する。
それは、古武術に限らず、現在失われかけている貴重な、しかし現代的感覚から見て「胡散臭い」とレッテル貼りされているほかの技術・思考法においても同じことがいえる。

幸い、扶桑会ではささやかながら継承の努力を続けることが出来る。
こころから有難いことだ、というべきだろう。
其の四百五十一 構える 大東流合氣柔術扶桑会 
相手に両手首をとられて押し込まれる。
強い力で圧倒されるかと思いきや、わずかな動きで相手の腰を浮かせて身動きできない状態にしてしまう。

大東流合気柔術の演武でよくみられるこういった動きは「合気」と呼ばれることがある。
いわゆる物理法則を超えた達人の所業というニュアンスが込められた「合気」という言葉だが、今回紹介する動きは、どちらかというと柔術的な物理法則を援用した操作である。
とはいえ、目に見える状況としては「合気」に近い。
相手の体の自由を奪うわけであるから効果としても同等といえるだろう。
単刀直入に言うと、これは「剣の理合」によって全身を使い、相手の体に柔らかい力を伝えている。
動きとしては「刀を構えるように」相手に対峙し、掴まれたところを脱力することで抵抗し難い力を発揮するのだ。

「合気上げ」という操作法は、多くの大東流の形の初動に使われるが、その根本原理がこの動きに込められている。
もちろん、この操作が円熟しより精妙になることによって先に述べた「合気」に近づいていくのであろう。

「掴まれたところを脱力する」というのは、ここまで再三言及してきたように、部分的な出力に陥らず、自分の体全部を使って力を出していくことで実現する。
「剣を構える」ことはまさにその全体を使う動きに通じる。

対人稽古でなかなかコツがつかめないという方は、まず一人稽古で剣を持ってみることをお勧めする。
剣を扱うとき、部分的な筋力は使わないはずだ。
全身を使って剣を振る稽古をするだけでも、合気上げの鍛錬になる。
其の四百四十九 合谷を使う 大東流合気柔術 扶桑会 
今回も接点に力を入れず、柔らかく操作することで力を発揮する大東流合氣柔術の技法を紹介したい。

前回(其の四百四十八 親指で乗る)と同じく、肩から先の筋力を使ってしまうと機能しなくなる身体操作である。
両手首をつかまれたところ、今回は自分の両方の手刀を刀を持つように合わせ、中心に構えるようにして沈む。
筋肉の力をもって押したり、引いたりすると相手は敏感にそれを察知して対処行動をとってしまう。
ただただ素直に手を合わせ、自由落下するかの如く垂直に重心をかけてみてほしい。

手の親指と人差し指が二股に別れたところを「合谷(ごうこく)」というが、これは刀の柄を握る際に縦一直線に「谷」の部分を合わせるようになることをイメージしてほしい。
これを相手に掴まれた手の上でも再現すると、非常に大きな力を発揮できるのだ。

まさに剣の構えかたを身体操作にも活かしていく代表的な例だが、大東流は「剣の理合に基づく」との言葉通りである。
最初はうまくいかないかもしれないが、姿勢、肩から先の脱力は、実際に刀を握り、振ってみてその身体感覚を確かめてみてほしい。

動画の中で、動き始めの「予備動作」を作らずに沈むようにとの表現があるが、これもまた、刀を使うことを想定してみると腑に落ちるところだろう。
剣を使った鍛錬も有効である。扶桑会では今後もこうした理合の研究を続けていきたい。
其の四百四十七 柔らかく使う 大東流合気柔術扶桑会 
害意ある相手に対して力で立ち向かうから、相手もまたそれ以上の力で向かってくる。
するとまたこちらもさらに大きな力で対応し…と終わりのない軍備拡張競争の寓話にでも出てきそうな話ではあるが、これは我々の身近なところでも、常に起こりうるジレンマだ。
大東流合気柔術は、力に対して違う角度から対処することを教えてくれる技術の体系を持っている。

今回の動きは、古武術大東流の考え方を使って、ちょっとした身体上の実験を試みたものである。
「遊び」と言ってもいいだろう。
対人護身に使えるというような類の物では全くないので、ご了承いただきたい。
実験と言っても、やることは簡単で「いかに掴まれたところの力を抜くか」ということ。
あたかも自分の手首とその周辺が、良くしなる「鞭(ムチ)」にでもなったイメージで相手の手首に巻き付けていくのだ。

少しでも自分の身体に硬くぶつかるところがあると、相手もまた身体を固めてしまって動かない。
手首をつかんだ相手が拍子抜けしてしまうほどに、力を抜くことが出来るかが問われる操作だ。
この脱力を完全に行うと、相手の抵抗はほぼなくなる。
そして自分の思うとおりに動かしていくことさえできるのだ。

ただ、一点断っておかないといけないのが「完全なる脱力」というものが、まったく物体として重力の支配下にあるものかというと、それとも言いきれないところがある。
この完全脱力した手刀(肩から先、手の指先まで)の芯には、操作する人の「意志」が通っていなければならない。
あるいはエネルギーと言い換えてもいいだろうか。
これを先達たちは「氣」というような言葉で呼びならわしたのかもしれない、と今の私は考えている。

「芯を作って脱力する」。
音では簡単に言える短い言葉だが、これを実際に運用できる身体になることが私たちの修行の目的なのだ。
其の四百四十五 並んで攻める 大東流合氣柔術扶桑会 
「剣を使うように」相手の身体を操作する、大東流合氣柔術ならではの技法解説、今回は「相手の隣に並ぶ」思考法を解説する。

これも「摺り上げ」の動きがその根幹となる考え方だ。
「摺り上げ」についてはここ何回か継続して取り上げているので、そちらも併せて参照してほしいが、手刀の刃(小指側)を意識しながら、自分の身体の中心で操作することが基本となる。
両手をつかんできた相手の手首を、手刀を立てるようにして相手の肩を詰める。
この初動で相手の体幹部分とつながるところが最初の難関であるが、これはいわゆる「合気上げ」の技法によって可能になる。
(この部分は「其の四百四十 刃に乗せる」で詳しく解説している)
さらにここから、この相手とのつながりを失わないように攻めを展開していくのだ。

両手刀を摺り上げるようにして立て、相手の肩を詰めたら、そのまま自分の中心で手刀を構え続けたまま、相手の側面に入り身する。
出来るだけ全身を脱力して、ただ「隣に並ぶ」ような気持ちで入っていくのがコツだ。
この時身体を転換する外側の手で、相手の手首を軽く握っても良い。
力を込めて握ってはいけない。あくまで小指をひっかける程度の入力にとどめること。

上手く隣に並ぶことが出来たら、相手にはこちらの全身の力がダイレクトに伝わる。
たまらず爪先立ちになって、その大きな力から逃れようとする相手の肘を肩に担ぐようにすれば、まったく身動きさせることなく制することが出来るのだ。

動画の中でも指摘しているが、この時に相手の腕を一本の刀と認識し、その切先を相手の肩に突きつけ続けること。
その攻めの意識が途切れたとたんに、相手への力の伝達はなくなってしまう。
これもまた、古武術大東流の「剣の理合」を如実に示す技術である。
其の四百四十 刃に乗せる 大東流合気柔術 扶桑会 
扶桑会で稽古している会員さんの中には、大東流合氣柔術の「合気上げ」に興味を持って入会された人も何人かおられる。
稽古が始まる前の空き時間ともなると、相手を見つけては思い思いに「合気上げ」の自主練習に取り組む姿が日常の風景となっている。
また、YouTube動画の視聴回数も「合気上げ」関連のものには比較的多く集まり、一般の武術愛好者にとっても関心の高い操作法であることがうかがえる。

では、どこがその関心の源なのかというと、やはり力いっぱい両腕を押さえられているにもかかわらず、あたかも自動機械のように難なく相手の身体を持ち上げているように見える、外見上の不思議さにあるように思う。
じつはこの「持ち上げる」という考え方に陥穽が潜んでいるのだが、その辺りを含めて今回は「合気上げ」について解説を加えてみたい。
さて、動画の中ではこのところ連続して取り上げている「摺り上げ」の技法を使って、相手の身体を斬り上げるように手刀を操作すことによって力を伝えている様子をお見せした。
「身体を斬り上げる」といっても、それは仮想的なものであり、手首を掴まれているのだから実際には相手との接点にしか力は伝達しないはずだと思われる向きもあるだろう。

しかし、受け手の実感としてはそうではない。
相手の手首をつかんだ手はなぜか離すことができず、四指を通じてまさにわき腹から背中にかけて大きな力を感じ、硬直してしまう。
実際に「見えない刃」によって体の内部を斬り上げられているような感覚があるのだ。

術をかけている方の意識としては、手刀の小指から尺骨にかけての部位に若干張りを作るほどの気持ちで、肩から先は脱力している。筋力の動きとしては肩甲骨から腰にかけての部位から発している程度であり、むしろ相手を持ち上げるというよりは、自分の腰の上に相手を乗せるように、全身を操作している。
手刀を摺り上げる動きに従って、相手の重心がこちらに近づいてくるように、引き寄せるような感覚で行うのだ。
決して腕の力で「上げよう」とするのではないことを強調しておきたい。
とはいえ、これを行うには現代人的な身体意識から、古武術的思考法への認識の変革が必要となる。

今回は「摺り上げ」を使った手法を紹介したが、合気上げ技法にはこのほかにも様々なアプローチが可能である。
だがそのいずれも、上に述べたとおりの「認識の変革」なくしては成功しない。
深く確実に、古武術的世界の感覚をつかみ取っていただきたい。
其の四百三十七 腰で絡める 大東流合気柔術 扶桑会 
3月の本稽古では、「掴まれたところをそのまま維持する」技法を取り上げた。
つまり相手に「攻撃できている」と感じさせた状態で力を伝えていく思考法である。
今回はその最後となる操作法となる。
動きに名前を付けるならば「両手取り三カ条小手詰」とでもなろうか。

私たち扶桑会が取り組む大東流合氣柔術は、大東流中興の祖、武田惣角先生および植芝守高(盛平)先生が久琢磨師に与えた、柔術技法を基盤にした技術の体系である。
大阪琢磨会には「総伝」として数百もの技が伝わっている。
一般に後年、武田時宗師によって編纂された「初伝技」には明確な技の名前が付けられているが、「総伝」はそうした呼称はなく、所収の巻数と条文の順序だけが記されている素っ気ないものだ。
技にわかり易い名前を冠すれば表面的な理解には役立つが、その奥に含まれている本質が隠されてしまうこともある。
技を覚えて理合に到らず、ということになりかねないのだ。
その意味で、ある種無味乾燥な「総伝」の呼称にも合理性がある。

さて、長々と前置きを書いてしまったが本題の「両手取り三カ条小手詰」である。
この動きの本質とは何かというと、腕の力を使わずに相手の身体を極め上げていくところにある。
決して「三カ条に小手を詰める」ことではなく、掴まれた瞬間、その初動の中にもっとも重要な理合が含まれる。
すなわち、「腰で絡める」ことだ。

相手に手首をつかまれたとき、手刀を開いて親指を張る。
手刀の峰を相手の掌底の小指側にからみつけるようにして、縦に斬り上げる。
この時、腰を外から内に旋回させることで、相手に全身の力を伝えるところに極意がある。
この動きが効果的に使えるようになると、相手は抗いようのない大きな力を感じ、こちらの手刀にからめとられるように無力化されてしまう。
これが「腰を絡める」操作である。

「掴ませたまま」「絡めつける」といった概念は、いわゆる「合気」に通じるものだと、私自身は考えている。
「合気」については今後積極的に考察を行っていきたい。
其の四百三十三 一体化する 大東流合氣柔術扶桑会 
今回の動画のメインタイトルを「一体化する」としたが、これには二つの意味を持たせている。
いわば「掛け言葉」である。

前回「其の四百三十二 持たせておく」で解説したように、相手に掴まれた手首を振りほどくのでもなく、またぶつけていくのでもなく、ただ相手が掴んできたその感覚を出来るだけ変えないように、すなわち「持たせたまま」にしておくことで相手を無力化する技法がある。
これもその一つであって、相手の身体に掴ませたままの手を触れていくことで体勢を崩してしまう。
動画では腰と膝のあたりに高低差をつけて接触し、丁度自縄自縛に陥ってしまうような形にしていることがわかるだろう。
この操作では、相手に手を触れる際に肩から先の操作で動かしていこうとすると、うまくいかない。
それは腕の筋力に負うところの大きい運動であり、そうした力は出所が悟られやすく、容易に反応されてしまうのだ。
それではどうするか。
ここで、一つ目の意味である「自分の身体を一体化する」操作法が必要となる。

接触点である手首を、身体全体の連動によって操作していく。
このことで相手は力の出所を感知できない。予想外の力が押し寄せてくるような感じを受けて、思わず知らず自分の身体に貼り付けられるといったような感覚を覚えるのである。

さらにもう一つ、これは先ほどと比べると相当に難易度が上がるが「相手の身体と一体化する」操作を行う。
掴まれた手を「持たせたままにする」よりもさらに高度な身体感覚を必要とする動きであり、相手の身体を意図的に動かしていくというよりは、「相手の身体についていく」というべきか。

これについては、私自身も研究を重ねているところである。今動画を見直してみても、その域には到底達していない。
頂は未だ遥か高みにあるが、一歩一歩たゆまず進んでいくつもりである。
其の四百十六 落差で崩す 大東流合気柔術 扶桑会 
<令和5年より、我々は東京稽古会から
「大東流合気柔術 扶桑会」と改称して活動してまいります。
今後ともよろしくお願いいたします>
前回、座ったままで相手を後方に投げ飛ばす「居反」という形を解説したが、それを立った状態で行うとどうなるかということを述べてみる。

両手首を抑えに来た相手の手を逆に取りかえし、人差し指の付け根で急所を攻める。
この急所は手首の「脈所」と呼ばれる部分であるが、自分の腕に力が入ってしまうと相手に力が伝わらない。
むしろ手刀を真っすぐに伸ばすようにして、自然に当たるに任せておくくらいの気持ちで操作すると、非常に威力ある攻めとなる。
この操作が決まれば相手は浮足立ち、腰の位置が上がる。
こうなれば前回解説した、「乗せる」状態へと相手の重心を誘導できる。

次に、立った状態から正座へと自分の体位を変化させる。
これは非常に大きな落差を生む。
相手は自分の重心を奪われているわけなので、これもまた大きな威力を発揮して、たまらず前方へと飛ばされていくわけだ。

ただし、これは自分の体位変化が、地球の引力に沿った「垂直落下」でなければ効果を発揮しない。
つまり、筋力の作用による引っ張りや押し込みがはいってしまうと、とたんに技がかからなくなってしまうのである。
そして、その「垂直落下」を可能にするのは全身を脱力して動けるかどうかにかかっているのだ。
脱力によって感覚を研ぎ澄まし、自分の身体の状態を正確に感知するセンサーを働かせなければならない。

初動で手首を極めるのも、しゃがみこんで投げる時にも、十分な脱力をもって全身の力を使う。
大きく派手に見える技ではあるが、そのパフォーマンスを支えているのはやはり、脱力の思考法であることを銘記していただきたい。
其の四百十四 居反 大東流合気柔術 東京稽古会 
今年最後の更新となる動画解説、今回取り上げるのは「居反(いぞり)」という形である。

跪坐の状態で座っているところに立った相手が両手をとって攻撃してくる。
それを合気上げの技法で自分の重心に乗せ切って後ろに投げ飛ばすのであるが、そこには「乗せて」「沈む」という二つの難関が立ちはだかる。
まず「乗せる」であるが、これは相手の体勢の崩れを利用して、手刀を柔らかく使うことで相手を自分の重心に誘導していく。
押し返したり、引っ張ったりすると相手は反発してしまう。

上手く乗せることができれば、次はその乗せた重心を一気に沈むことで相手の全身を崩していく。

もちろんこの時には、地球の引力に合致した線上にまっすぐ沈むことが重要なのだが、座った状態でそれを行うのは非常に難しい。
ここでは跪坐を瞬時に正座に変じ、さらに腰を地面につけるようにして落とすことで沈身している。

「乗せて」「沈む」という二つの操作を、滑らかに連続して行うところにこの技の要諦がある。
自然体の中で脱力できるよう、修練していただきたい。